このブログをご覧の方は既に知っているが、僕の写真は「写っていれば良い」というレベルから1歩も出ていない。自分でもそう思うのでそれは間違いないところだ。
そんな写真でも「未来に仕掛けた罠」だとすれば自分には意味は無くない。ただ撮って、見ても「なにを見せたくて撮ったの?」と自問してしまうほど「つまらない写真」だと思う。
正直、写真を撮るときに「これをこんな感じに撮れば、こんな感じの写真になるはず」というような具体的なイメージを持ってシャッターを切るということはほとんどない。
そりゃ、露出については考えますよ。逆光だから(白っぽい対象だから)と絞りを開けたり、閉めたり。動きのある対象だからシャッタースピードはこれくらいにしようとか。
でも、それは逆光の時はこうする。動きのある被写体の場合はこうするという「机上の知識を実践」しているにすぎない。
自分はこの被写体でこんな具合の写真にしたい。という自分自身の主張(希望)がない。
あとから自分で見ても「これはなんなの?」と思うのも当然であり、他人が見てなにがしかの感想すら持つ筈がない。
こういう自分に対する不満を持ち続けている。
そんな時に図書館で出会ったのが「写真を楽しむ」(飯沢耕太郎著、岩波新書)である。本書の一説に
撮るための道具や技術に意識が傾きすぎていて、何をどう表現したくて写真を撮っているのかという肝心な部分が見えてこない。と書かれていた。被写体については「日々の暮らしの中で、あっと思った出来事にカメラを向けてシャッターを切れば、それで良い」とも言う。
僕だって、「あっ」と思ってシャッターを切っているけどね。「あっ」と思うだけじゃ駄目で、まだなにかある筈だ。
飯沢氏はアウグスト・ザンダー(ドイツの写真家)を名言としてあげていた。
見ること、観察すること、そして考えること。今の自分にはなかなか理解の及ばないなんとも深い言葉だ。飯沢氏は次のように述べる
写真家はまず被写体を見る。だがそれだけでは、なにをどのように撮るべきかがはっきりと見えてこない。「観察する」ことによってより深く被写体の本質が浮かび上がってくる。さらに「考える」ことによってその認識は普遍的なものに鍛え上げられる。その時点でようやく写真家は確信を持って撮影に臨むことができるだろう。うむぅ…そういうものかもしれない。できないだろうけど、これを意識して臨むことは無駄にはならないだろう。
ところで、命題めいたことを書いたのにはワケがある。
先日、DPEに出したフィルムが仕上がって来た。画像を確認して最大限のショックを受けるハメになった。
- Pentax SPでピンを外すというのは、俺の目は節穴なんだろうか。
- Pen Sでは、iPhoneのアプリを使って露出を決定、撮っていたのになんだかオーバー気味。
- Pen EES-2では、いい気になってISO設定ダイアルをいじり回し、かえっておかしなことになっている。(Pen Sよりひどいオーバーだ。ISOダイヤルをいじくり回したせいか、本体EEがオーバーに振れているのか)
無理に写真を撮っている印象がある。つまり、何をどう表現したくて写真を撮っているのかという肝心な部分が見えてこない。
技術的にはピンを外したのと、ネガフィルムなのに露出がオーバー目というのはカナリ凹む。
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